日本の民主主義はなぜ世界一長く続いているのか/竹田恒泰/2023.2/4冊目/98点

大学2年生にむけて行っている授業をまとめたものというだけあって、とてもわかりやすい。
 
 
さらにアハ体験もあるから、読み進める力も自然と働くし、めちゃくちゃ面白かった。わかりやすいって正義。民主主義や国のなりたち?の入門書として最適。

 

 

民主主義は正しくて、専制は間違っているという幻想

私たちは教育の中で「民主制は正しくて、専制は間違っている。」という考えを知らず知らずの獲得していないだろうか。
 
しかしよ次の例を考えればこの考えは間違えだと分かる。
 
例えば「包丁は正しい」という問いの答えはないだろう。包丁は料理にも使えれば、人殺しの道具にもなる。包丁を「どう使うか」によって正しさは決まるはずなのだ。
 
つまり民主制も専制も使い方しだいで正しくも間違いにもなるのだ。
 
これは実際の例をもって示すこともできる。
 
あまりにも有名な話だが、ナチ党のヒトラーはユダヤ人の大量虐殺を行い、独裁者の代名詞となった。しかしそのヒトラーは民主制に基づく選挙によって国民に選ばれたのだ。そこには第一次世界大戦の講和条約、ヴェルサイユ条約のあまりの厳しさに不満を抱いていた国民感情を、ヒトラーがうまく利用した経緯があるのだが、その話は第二章に譲るとする。
 
一方、1965年にマレーシア連邦から独立したシンガポールはいまやアジアにおける金融センターだ。中田敦彦がその先進性からシンガポールに移住したように現在進行系で成長し続けている国である。
 
なぜ60年あまりでここまでの発展を遂げられたのか。それはリー・クワンユー初代首相が「開発独裁」と言われる政治体制を長きにわたって行っていたからだ。
 
この急発展は「議会の多数派の投票を得られたら政策が実行できる」という民主制に基づいていたら決して達成できなかっただろう。
 
このように「民主制が正しくて、専制は間違っている」という考えはお門違いで、実際は使い方次第なのだ。
 

日本は「君民一体」の国

 
ここで一度、言葉についてしっかり考えてみよう。デモクラシーという言葉は「民主主義」や「民主制」と訳される。両者の違いは何なのか。
 
それは正しいという価値判断がすでに含まれているかどうかだ。たとえば菜食主義者は肉を口にしないという主義を持っている。主義とは誰がなんと言おうと自分が「正しい」と思っていること、制はただ単に制度のことである。
 
つまり民主主義には「正しさ」という価値判断が含まれており、民主制には含まれていない。
 
このように私たちが区別なく使っている言葉も厳密にはいろいろな含意がある。
 
「国民主権」という言葉も同じである。私たちは「戦前は天皇主権で、戦後は国民主権になった」と習ってきた。しかし本当はそうとはいえない。
 
そもそも主権の意味は「ある国の政治のあり方を最終決定する力」ということだ。国民が主権を持っていれば国民主権、君主が持っていれば君主主権となる。
 
一般に日本国憲法における天皇は国の象徴であって、政治的な力は持っていないとされている。日本が完全に国民主権の国なら国民がだけですべてが決められないといけない。しかし実際は法律一つ、国民だけで完成させることはできないのだ。
 
法律を作るのは国民だが、法律を公布するのは天皇である。公布とは誰でも閲覧できる状態にすること。
 
そもそも公布されていない法律は守りようがないため、公布された時点で(具体的には官報に掲載された時点で)法律は効力を持つ。そして天皇以外に法律を公布できる権限をもつ機関はない。
 
つまり日本国憲法は法律を公布する機関として天皇を指定している。内閣総理大臣も同じである。内閣総理大臣は国会の議決で指名される。
 
そして国会に出席する国会議員を選ぶのは国民である。つまり国民が内閣総理大臣を決めているといえる。
 
しかし国会の指名にもとづいて、内閣総理大臣を任命するのは天皇なのだ。
 
ここまで内容を総括とすると次のことが言える。
 
「日本は天皇と国民が一体となったときに主権が行使される」
 
つまり「君民一体」こそ日本の主権のあり方なのだ。
 
「君民一体が日本の主権の在り方」なのは、戦後の日本国憲法における話だけかと思うかもしれない。しかし戦前も「君民一体」であったことを述べておく。
 
戦後の教育を受けた私たちは「戦前、天皇は政府も軍も動かせる絶対的な権力を持っていた」と思っている。しかし実際は、天皇のみで何かを決めることなど到底できなかった。事実、明治維新から現在にいたるまで、天皇が国策を直接決定をしたのはたったの一回である。
 
その一回も昭和天皇がポツダム宣言を受諾を決定したときだ。
 
ここまでの内容をまとめる。「戦前は天皇主権で、戦後は国民主権になった」という考えは間違えで、実際は「君民一体」こそ日本の主権の在り方なのだ。
 
 

権利と義務

 
権利と義務はセットである。
 
たとえば1ヶ月の労働という義務を果たしたものには、1ヶ月の給料を得る権利がある。
 
しかし1ヶ月の労働をしていないものが、1ヶ月の給料を得る権利を主張することはおかしい。
 
そして後者がおかしいことは誰にとっても自明のことだ。しかし現在ではこのおかしいことがまかり通っている。
 
たとえばアメリカは訴訟社会である。とにかく相手を訴えるわけだ。マクドナルドで熱いコーヒーをこぼして火傷をした客がマクドナルドを訴えたという話がある。
 
本来であれば「自分が熱いコーヒー頼んだんだから、こぼさんように注意しなさい。自分の不注意が悪い」という話なのだ。
 
この原因はアメリカ独立宣言に権利だけが記載され、義務について語られなかったからだと本書は指摘する。
 
そしてこの西洋の権利という概念をそのまま輸入した日本も程度の差はあれ権利過剰になっていると。
 
ちなみに、アメリカ独立宣言の序文を暗記したので書いておく。
 
「われわれは以下の事実を自明のことと信じる。すなわち人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」

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