目次
第一章:古代~大和
縄文時代
狩猟、農耕、漁猟で生活。丘に竪穴住居を作って暮らしていた。
富を保存できないため、貧富の差はなかったと考えられる。
同時代、ギリシャのアレクサンドロス大王はヨーロッパからインドまでを征服していたことを考えると、国すらなかった日本はかなり遅れていたことがわかる。
ちなみにアレクサンドロス大王の家庭教師は哲学者アリストテレスである。
弥生時代(紀元前3~3世紀)
北九州を中心に稲作が始まる。これは朝鮮半島から渡ってきた人間によって九州から伝えられたと考えられている。籾(もみ)は長期保存が可能なので、貧富の差が生まれた。
また朝鮮半島から青銅や鉄器も伝わる。青銅は装飾や銅鐸などの祭祀に、鉄は武器や鎌など実用的に使われた。
世界的に見ると青銅器時代から鉄器時代への移行は2000年かかっているが、日本では同時に入ってきたため、青銅器時代と鉄器時代の境目がない
●アニミズム
アニミズムが生まれた背景には、
・四季があり自然豊かなこと
・稲作の収穫が、天候などの自然によって左右されること
があったと思われる。
また同じような理由から、豊作を祈願する祭礼も行われるようになった。
●邪馬台国
中国の歴史書「魏志倭人伝」には日本は当時、内乱がありそれを収めたのが卑弥呼であると記されている。しかし中央集権的な国家ではなく、連合国家であったと考えられている。
邪馬台国がどこにあったのかについては、畿内説と九州説があり、未だにわかっていない。
古墳時代(4〜6世紀)
●大和朝廷
その後、大和朝廷が誕生したことが、日本書紀、古事記からわかる。しかし邪馬台国が大和朝廷になったかはわからず、邪馬台国を別の民族が倒した可能性もある。
この頃から日本独自の前方後円墳が作られており、ほぼ全国にあることから、大和王朝は全国に力を及ばせていたと考えられる。
前方後円墳として大阪府堺市の大仙陵古墳
大阪府羽曳野市(はびの)の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)
が有名。
●古墳時代の大まかな時の権力者
仲哀天皇(ちゅうあい)→神功皇后(じんぐう)による摂政→応神天皇(おうじん)→倭の五王→武烈天皇→継体天皇
仲哀天皇はなぜか天皇を業績を称える意味を持つ日本書紀で、神を避難し崩御したととれる記述がある。
また、哀しいという漢字が使われていることも意味ありげだ。
さらに仲哀天皇と神功皇后の息子である応神天皇が生まれたのは、
古事記では仲哀天皇の死後15ヶ月後
日本書紀では死後10ヶ月10日となっている。
十月十日は実際は九月十日のことなので、出産が遅れている。その理由も記紀に色々と書いてあるが、編纂者が苦労してるようにもみえる。
このこともあり、仲哀天皇→応神天皇の時に王朝が入れ替わったとする説がしばしばささやかれる。
仲哀天皇は九州を支配していた熊襲(くまそ)を倒しに出向いた際崩御したとあるが、
実は熊襲に敗れ、大和王朝は倒されたのではないかというのだ。
しかしこの頃にはすでに「万世一系」の不文律があったため(記紀による)、編纂者がうまく編纂した可能性がある。
次の倭の五王の時代のことは、いまだによく分かっていない。
継体天皇は最も謎の多い天皇と言われる。武烈天皇の崩御した後、皇位継承者が見当たらず応神天皇の5世の孫の継体天皇が越前(福井県)から迎えられた。
年齢は58歳、即位後さらに19年間都入りしなかった。また武烈天皇は天皇の業績を称える日本書紀の中で、悪逆非道な天皇として描かれている。
これらのことから継体天皇の代で、王朝が変わったと考えられている。
継体天皇が前王朝と戦い滅ぼしたということ。
つまり現代の天皇は継体天皇からの血筋だと考えられるのだ。
しかしここでも天皇は万世一系でなければならないという考えが働き、あたかも血筋が切れていないように書いているというのである。
第二章:飛鳥時代〜平城京
飛鳥時代(六世紀後半〜八世紀初頭)
崇峻天皇の時代から約100年間を飛鳥時代という。名前の由来は飛鳥(今の奈良県明日香村)に都があったからだ。
●聖徳太子
継体天皇の死後、物部氏と蘇我氏の間で仏教受容をめぐる戦いがあった。
戦いに勝った蘇我氏は、継体天皇の孫であった崇峻天皇を殺害し、新たに推古天皇を立てた。
ここに日本初、東アジアでも初の女帝が誕生したのだ。
推古天皇の補佐をしたのが聖徳太子である
ここで聖徳太子の有名なエピドードを紹介する。
この頃、大陸では巨大な軍事力を持つ「隋」が誕生していた。朝鮮半島の百済、新羅、高句麗は隋に冊封をうけている。
そんななか日本も600、607年と遣隋使を送り外交を図るが、隋の皇帝、煬帝に託した親書はとても有名である。
「日出るところの天子、書を没するところの天子に致す、恙無きや(つつがなき)」
当時、天子といえば隋の皇帝のみであった。
聖徳太子は日出づるところの天子と書くことで、「日本は隋に冊封を受けず、対等である」と気概を示したのだ。
その後、煬帝が注意の返事をわざわざ返していることや、そもそも聖徳太子がこのような大胆なことをしたことから、日本の力は無視できないほど強まっていたと考えられる
●十七条の憲法
憲法十七条はすごい。なぜなら為政者の権威を誇示する文がほとんどなく、道徳的規範に終始しているからだ。
これは憲法十七条の第一条目。
「仲良くすることが大切で争いはやめよう」という意味である。
「この後にはなんでも話し合いで決めよう」と続く。
世界のほとんどの国が専制独裁であったのに対し、いわば民主主義のこの考えを採用したことは注目すべきことだ。
また
第二条に仏教を大切にせよ
と続き、
第三条で天皇の詔を大切にせよ
とあるのだ。
天皇の摂政であった聖徳太子が、天皇よりも仲良くすることや仏教を大切にしていたところに、聖徳太子の先進性がわかるのだ。
●大まかな時の権力者
聖徳太子・蘇我氏(推古天皇)→天智天皇→天武天皇→文武天皇・元明天皇
聖徳太子の死後、蘇我氏の力が強くなり、その力は天皇をも脅かすものであった。
そこで中大兄皇子(天智天皇)が645年に乙巳の変を起こし、蘇我氏を滅亡させ、天智天皇となる。
天智天皇は都を飛鳥から大津(滋賀大津市)に移し律令国家を築く。
天智天皇の死後、672年に、息子の大友皇子に弟の大海人皇子が反旗を翻し、大友皇子を倒し天武天皇となった(壬申の乱)
天武天皇は再び都を飛鳥に戻し、古事記、日本書紀の編纂を命じる。また少し後には万葉集も編纂されている。
文武天皇が疫病で崩御した時、世の中も疫病と飢餓で多くの人が死んでいた。そこで元明天皇は都を藤原京から平城京に移した。
現代では意味があるのかと思うが、当時は疫病、飢餓も人知を超えたものとされていたので、遷都して解決しようとしたのである。
710年に平城京に遷都してから70年余りを平城京時代という。
●日本
飛鳥時代(600〜700)あたりで日本という名称が初めて使われたと言われているが、正式な始まりはわからない。
しかし天武天皇が日本書紀の編纂を命じた時には日本という国号が使われているため、これ以前だとわかる。
日本の意味は「太陽が昇るところ」である。
607年、聖徳太子が隋の煬帝に「日出ところの天子、〜」と送ったように、日本は東アジアで最も早く太陽が昇ることを誇りに思っていたのだ。
●律令と班田収授法
乙巳の変で蘇我氏を滅ぼした天智天皇は大津にて律令を作ったことは先ほど述べた。(「近江令」はなかったという説もある)。
701年文武天皇の頃には大宝律令も作られる。
律令国家となった日本で特筆すべきことは土地制度である。
はじめは「班田収授法」が施行された
つまり私有地を認めない、極めて公平な制度であった。
平城京時代(710~)
文武天皇が疫病で崩御した時、世の中も疫病と飢餓で多くの人が死んでいた。そこで元明天皇は都を藤原京から平城京に移した。
現代では意味があるのかと思うが、当時は疫病、飢餓も人知を超えたものとされていたので、遷都して解決しようとしたのである。
710年に平城京に遷都してから70年余りを平城京時代という。
●土地制度
班田収授法を行っていたが、平城京時代は人口が増えて、口分田が足りなくなる。
そこで発したのが三世一身法だ。
三世一身法:新たに土地を開梱すれば、三代に渡って土地を引き継げるというもの。
公地公民の原則が崩れ始めていることがわかる。
三世一身法も三代目になると、「土地をどうせ返還するから」と放置し荒れ地が増えた。
そこで墾田永年私財法(743年)が施行される。
墾田永年私財法(743年):開墾した土地は永久に私有地として良いというもの
完全に公地公民の原則は崩れたのだ。
これは大きな格差を生んでいく。
貧しい農民は開墾する余裕などない。一方裕福な貴族は貧しい農民を使い、どんどん私有地を増やしていった。
大まかな権力者
平城京時代の特筆すべき権力者は二人。
聖武天皇:国分寺・国分尼寺を作る。盧遮那仏を作る。
土地を持ったことで貴族が力をもち、争いが耐えなかった。聖武天皇は仏教で世の乱れを直そうと、国分寺・国分尼寺、盧遮那仏を作った。
桓武天皇:長岡京へ遷都
聖武天皇の建立のおかでげ、今度は寺院や僧侶の力がました。それを嫌った桓武天皇は長岡京へ遷都した。
第三章:平安時代
第四章:鎌倉幕府~応仁の乱
鎌倉時代
●元寇(蒙古襲来)
この頃、中国ではチンギス・ハン率いるモンゴル民族が、次々領地を広げていた。
その広さは歴史上最大で、ユーラシア大陸のほとんどを支配し、当時の世界人口の半数以上を統治したのだ。
孫のフビライ・ハンは日本も統治しようと攻め入り、文永の役(1274)・弘安の役(1281)が起こった。
鎌倉幕府はとてつもない力を誇ったモンゴル民族を2度も打ち破った。文永の役・弘安の役をあわせて、元寇や蒙古襲来という。
●鎌倉幕府衰退
蒙古襲来に勝利したものの、自国を守るための戦いだったため御家人に十分な報酬を与えられなかった。
また当時の相続方法が、嫡男以外の兄弟にも土地が分け与えられたため、三代も経つと財産は縮小し、生活は困窮した。
困窮した御家人は商人からお金を借りるが、利子と返済に苦しむことになる。
これをみた幕府は徳政令をだし借金を帳消しにした。しかし徳政令により商人はお金をかさなくなり、御家人はより困窮したのだ。
●鎌倉文化
鎌倉時代は、貴族→武士への転換期である。文化においても優雅を好む貴族文化から質実剛健な武士の文化に変化した。
〈文学〉
平家物語
保元物語
平治物語
宇治拾遺物語
今昔物語集
徒然草:兼好法師
方丈記:鴨長明
〈彫刻・絵画〉
東大寺南大門金剛力士像:運慶・快慶
平治物語絵巻
蒙古襲来絵詞(えことば)
・仏教
平安末期から鎌倉にかけては、飢餓と戦乱がたびたびおきた。また末法思想が流行し、庶民の間に救いを求める声が強くなる
そんなかで新たな仏教の流派がでてきた。大きくわけて、浄土宗・浄土真宗と禅である。
建武の新政
●後醍醐天皇の野望
鎌倉時代の天皇に政治的実権はなく、後継者争いに明け暮れていた。
発端は13世紀末に後深草天皇と亀山天皇がどちらの子孫を天皇にするか争ったことである。
幕府は間に入り、交互に天皇をだす「両統迭立(りょうとうてつりつ)」を提案し、天皇たちは承諾する。
ここに南北朝の対立を生む2つの系統が誕生する。
後深草天皇:持明院統
亀山天皇:大覚寺統
である。
しかし大覚寺統として天皇となった後醍醐天皇は、両統迭立に終止符を打つ。
さらに天皇が実権を持つ親政を復活させようと考える。
しかし、情報漏洩したことにより一度目は失敗。再度倒幕を計画するも、幕府に捕らえ隠岐に流される。
幕府は後醍醐天皇を廃し、持明院統の光厳天皇(こうごん)を即位させる。
しかしこの事件をきっかけに幕府に不満を持つ各地の武士たちが、次々と挙兵しだすことになるのだ。
●悪党、楠木正成の挙兵
後醍醐天皇に続き、楠木正成が河内(大阪東あたり)で挙兵した。幕府は、10万の兵を送ったが、楠木正成のこもった千早城(ちはや)はわずか千人の兵である。
しかし楠木正成は戦の天才であった。
相手を翻弄し、百倍の軍勢を半年も釘付けにしたのだ。幕府が楠木正成にかかりきりになっているうちに、後醍醐天皇が挙兵。
新田義貞が鎌倉に攻め込み、北条高時は自害。楠木正成が挙兵して半年で鎌倉幕府は終わったのだ。
●建武の新政
鎌倉幕府が崩壊すると、後醍醐天皇は京都に入り親政を行った。(建武の新政)
しかし親政はわずか3年(1333-1336年)で崩壊することになる。
とても端的にいうと実際に戦う武士ではなく、公家を贔屓した政治を行ったため不満がいろんな形で現れたのだ。
結局、後醍醐天皇を京都から追い払った、武士の足利尊氏が持明院統の光明天皇(こうみょう)を即位させ政治の実権を握る
南北朝時代
後醍醐天皇は和睦の印として、光明天皇に三種の神器を譲る。
しかし奈良の吉野で後醍醐天皇は、渡したのは偽物で本物は自分で所持しているといい、自分が真の天皇だと宣言する。
これにより京都の天皇(北朝)、吉野の天皇(南朝)の2つの朝廷が存在する前代未聞の時代が始まった。
●南北朝統一
後醍醐天皇(南朝)は武将を全国に派遣し、勢力を広げたため南北朝の争いは全国的な戦いに発展する。
ことの結末は三代将軍足利義満(尊氏の孫)の時代。義満は全国に自分の側近を派遣し南朝を支持する大名の力を削いでいく。
南朝は、懐良親王(かねよし)、宗良親王(むねよし)、北畠顕能(あきよし)など中心人物が亡くなったことで、力を弱める。
1392年、義満の仲介により南朝は北朝の和解を受け入れる。
ここに56年続いた南北朝時代は幕を閉じた。
室町時代
●室町文化
幕府が一揆などで悩まされている時に幼くして将軍についた8代将軍足利義政は政治を疎むようになる。
趣味に没頭するのだ。
将軍不在の政治のなかで世の中は荒れ、のちの応仁の乱につながる。
しかし義政のおかげで文化面は大きく進んだ。
特に室町文化の特徴はわび・さびが生まれたことである。
侘茶(わびちゃ):村田珠光が発展させ茶の湯の一種。後に千利休が発展させる
生花、立花:草木の枝・葉・花を切り取り、花器に挿し、形を整えて鑑賞に供すること
枯山水:水を使わずに山水の風景を表現する
能、狂言
●応仁の乱
八代義政の時代に応仁の乱が始まるが、一言でいうと応仁の乱は目的のない戦いである。
いろいろな人間の思惑が交錯してわけがわからない。
最初は義政の後継者争いだった。息子(義尚)を将軍にしたい母と、義政の弟の間で争いが起こった。そこでそれぞれの補佐役の山名氏と細川氏が戦うのだが、後に補佐役が入れ替わる。
この戦いは多くの守護大名を巻き込み、西軍と東軍に分かれて全国的な戦いに発展していく。
義政は義尚に将軍職を譲るが、それでも戦いは終わらなかった。後半は惰性的に各地で戦いが続き、主だった将軍が死ぬこともなく、戦後に罪に問われた将軍もいなかった。
これほど無意味な戦いはない。
まさに「人の世むなしき応仁の乱」である
しかし応仁の乱も社会のルールを変えたという意味はあった。
東西ともに家柄に関係なく、力のあるものを登用していったので、これまでの伝統的な社会制度が崩れたのだ。
この時代に下克上の思想が生まれ、のちの戦国時代につながっていくのである。
第五章:戦国時代
応仁の乱後、細川氏が実権を握り将軍は名ばかりのものとなった。
しかし細川氏も全国を統治する力など到底なく、寺院や武士たちが各地で領土を争っていた。
室町幕府滅亡
勢力を伸ばした織田信長は、足利義昭を15代将軍に立てて京都を落とす。
しかし義昭と対立し、1573年義昭を京都から追放する。
こうした240年続いた室町幕府は滅亡した。
織田信長
天下統一をねらう織田信長は経済力が必要だと考えた。
商人からみかじめ料を取っていた寺社勢力と信長は対立する。
10年にわたり本願寺と争うが、最終的に勝利。
しかしもう少しで天下統一というところで、家来の明智光秀に打たれる。
羽柴秀吉の天下統一
毛利と戦っていた羽柴秀吉は、信長の急死を聞き、すぐに機内に戻り明智光秀を打つ。
秀吉は戦上手で全国の大名を服従させる(1590年)。ここに戦国時代が終わりを告げた。
豊臣秀吉
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●秀吉の政策
太閤検地:京枡という統一の単位で石高を把握した。
→前は指出検地(自主で申告)だったので適当だった。正確に年貢を把握できるようになった。
刀狩り:農民から刀を取り上げた。一揆を防ぐ効果あり。
→農民は平時は農業、戦時は兵士だった。
キリスト教の弾圧:最初は布教を認めた。しかし後に厳しく弾圧。
朝鮮出兵:文禄の役、慶長の役。どちらも好調。しかし秀吉が死に、大名内で対立が起きたことでそれどころではなくなり、引き換えした。
関ケ原の戦い
秀吉の死後、五奉行と五大老の合議制で運営することになっていた。しかし徳川家康が勢力を広げようとしていたため石田三成と対立。
関ヶ原の戦いが起こる。
勝利した家康は1603年、征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。
第六章:江戸時代
江戸は戦国時代が終わり、国際秩序が安定した時代だった。庶民の間に文化うまれ、徳川幕府の安定していた260年間は大きな戦争は一度もなかった。
また衛生面では世界的に見ても高かった。(ヨーロッパはその不潔さが原因で疫病により死者がたくさんでていた)
江戸幕府
家康は江戸幕府を開いた二年後に秀忠に将軍職を譲るが、政治の実権はしっかり握っていた。
大阪夏の陣・冬の陣で(1615年)で豊臣家を完全に滅ぼすと、武家諸法度を制定し、全国にいた200人近くの大名を管理下においた。
(例えば新たに城を作ってはいけないなど、反乱を起こさせないための大名へのルールを作った)
大名とは一万石以上の領地を持つもののことをいう。当時、一石で一人が一年間生きれるとされていたから、約1万人を養える国力ということ。
ただ徳川家が全国を収めたわけではない。直轄地以外は、それぞれの藩主が収めており、法律も藩ごとに違っていた。このような独特な封建制を幕藩体制という。
徳川幕府は朝廷に「禁中並公家諸法度」、寺院に「寺院法度」、神社には「諸社禰宜神主法度」を制定し、管理した。
三代将軍・家光
家光が行ったのは参勤交代である。
参勤交代とは江戸に妻子を住まわせ一年おきに国と江戸を行き来させる政策である。
行き来の際は行列を組み、その規模も藩の核によって決められていた。
大名は江戸に屋敷を立て、家来や妻子を住まわせた。
これにより大名たちは財政的に逼迫したがこれこそが家光の狙いであった。
江戸幕府の政治体制
政治は基本的に老中が執り行った。老中とは現代でいう首相のようなもの、大名の中から有能なものが選ばれた。
将軍は世襲制である。しかし血筋が途絶えたときのために御三家という家康の男系男子の子孫からなる大名家をこしらえた。
鎖国
二代目2でただの頃からキリスト教を禁じ、家光の頃には鎖国政策を取った。
そのきっかけは島原の乱という大規模な一揆が起きた際に、多数のキリスト教信者がいたからである。
しかし最近ではオランダと中国、挑戦、琉球とは限定的に交流を続けたため最近では鎖国状態だったのか疑問を持たれている。
しかし「一国平和主義」を目指したことは間違いなく、ヨーロッパの科学や技術が入ってこなかったのは事実だ。
世界に背を向けた鎖国が200年以上続いたのは日本の地理的条件に恵まれたからに他ならないだろう。
武断政治から文治政治へ
家光が死ぬと長男の家綱が10歳で将軍となった。
このころになると徳川政権の基盤が固まったことで、戦国の荒々しい雰囲気がなくなった。
よって武力を背景とした武断政治から文治政治に移り変わった。文治政治とは、学問や教養、特に儒教をもって国を治めることである。
家綱が嫡男をもうけることなく若くしてなくなったため、家光の四男である綱吉が五代目将軍となった。
綱吉は生類憐れみの令でしられる将軍である。犬や猫を殺せば死罪、釣りをしただけで流罪などおびただしい数の人が処罰された。
しかしもともと綱吉は聡明な人物であったとされる。生類憐れみの令も儒教に則り弱者をいたわり、生き物の命を粗末にしてはいけないという精神からだされたものである。
だが行き過ぎた法律と運用は天下の悪法となることを証明することとなった。
めちゃくちゃ飛びます。
明治
明治維新でたった5年の間にありえないくらい変化する。まず頭のちょんまげを切る法令が出された。
そして、旧暦を廃し、太陽暦に変わった。
四民平等となり移民や職業選択の自由が得られた。
東大など初の大学ができた。
5年前までちょんまげ武士だらけだった江戸が5年で見違えるようになったのだ。
今なら考えられないスピードである。西欧諸国は最後の植民地としてアジアに来ていたし、それくらい危機迫る状況だったのだ。
そのあと明治6年の政変がおこった。征韓論、、韓国を征服せよ、、という立場と国内が先だ!という人たちが争った。
また大日本帝国憲法ができた。
そのご、西郷隆盛が部下に押されて九州で西南戦争を行った。武士の反乱である。
しかし鎮圧され、まじで武士の時代おわり。これを持って明治維新の終わりとされる。
そのあとは日清戦争が起こる。
清と日本の韓国をめぐっての戦いである。そこで日本は勝つ。
それにより多額の金を得る。
戦争は金になる
そんな間違った価値観が売れまた瞬間であった。
その後三国干渉により、フランス、ドイツ、ロシアに日清戦争で得た遼東半島を返せと言われる。
力では及ばない日本はしゃーなしで返す。国民は怒った。
臥薪嘗胆!国力強くするぞー!
と掲げて国力増強により励む。
日清戦争で、眠れる獅子ではなく、死せる豚だとバレた清国は次々西欧諸国に権利を奪われていく。
ロシアは不凍港を求めて南下政策をとった。なんとか外交で折りをつけようとするが跳ね返されたので、
ロシアと戦争だ!という世論も高まった。
日本はイギリスと同盟を結び、日露戦争を始める。
世界最強だったバルチック艦隊を破った日本海海戦もあり、日本は勝利。
37年前まで鎖国をしていた日本。戦争前はどの国もロシアの圧勝だと思っていたが、勝ったのだ。
これによりあらゆる植民地で
俺らもいけるぞ!
となり民族運動が盛んになった。
ポーツマス講和条約では賠償金が得られなかったことで国民はキレた。メディアも痛烈非難した。これにより戦争続行の機運が高まり、大暴動がおきる。
なんとか鎮圧。
日本は不平等条約を改正を達成。このための国力増強であったおめでとう。
凄まじい発展の背景には、外国に行って死ぬほど勉強した奴がたくさんいたことがある。
古市公威は河川とかのトップの省庁の人だった。
この人があまりに熱心だから、このままだと体壊しますよわ休んでと宿舎のばあちゃん言われた。
すると
自分が一日休むと日本が1日遅れます。
と答えた。
すごいな。
ちな三島由紀夫の本名は平岡公威。
古市公威から、取られてます。
1914年第一次世界大戦が勃発。20数カ国が参加する、歴史上最も大きな戦争が起こった。
平和のためということで、戦争後国際連盟誕生。
日本は戦地ではないし、戦ってる国への輸出がすごく増えたため、好景気になる。
その後、ロンドンで軍縮しようという会議が行われる。
同意して帰ると、軍部が怒る。憲法を拡大解釈した反発を軍部が行う。
後の敗戦へむかう日本の傾向が見られる。
中国で力を持つものが出てきた。
中国に日本がしいた満鉄。その横に鉄道を作りはじめてもうバチバチ。
それで現地の外国人たちが殺されたり陵辱された。他の国は怒って報復したが、日本の幣原喜重郎は仲良くすることが大事と無視。
日本人は襲われてないと嘘まで流して世論にバレないようにした。
しかも現地の人が知らせようとする集会も禁止。
現地の人が政府に訴えても何もしてもらえなかったのだ。
これにより中国は日本は見せかけのトラだと思った。
これにより日本を下にみる意識が生まれたと言われている。
現地の人は中国にいた日本の軍隊、関東軍に直接訴える。
関東軍は満鉄を爆破し、中国の仕業として戦いをおこす。
制圧するが、これ以降、中国との戦いが泥沼化していく。(満州事変)