『それでも人生にイエスという』ヴィクトール・フランクルの感想・レビュー

「夜と霧」で有名なヴィクトール・フランクルの初期の作品。強制収容所をでてから、数年しかたっていない時の、大学での講演を書籍化したもの。

「私たちの人生は有限です。私たちの時間は限られています。私たちの可能性は制約されています。こういう事実のおかげで、……なにかの可能性を生かしたり実現したり、成就したり、時間を生かしたり充実させたりする意味があると思われるのです。死とは、そういったことをするように強いるものなのです。ですから、私たちの存在がまさに責任存在であるという裏には死があるのです。」

私の友達は大学2年生まで自殺願望を抱いていた。それを克服した今、彼女が悩んでいるのは責任感のなさだ。これは死がなんでもないことになったことで、全てのことはどうでもいいという思考習慣が染み付いた結果だと思う。

フランクルはこうもいう。

「苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです」

僕はこの考えを聞くと29歳でこの世を去った天才将棋棋士「村山聖」を思い出す。彼はネフローゼを患い、自分の人生が長くないことを知っていた。彼の将棋に向き合う真剣さは他の棋士の比ではなかったという。

彼の人生を思うと、ネフローゼという苦難があったからこそ、非凡な人生を送れたのではないかと思わずにはいられない。

「人生は絶えず、意味を実現するなんらかの可能性を提供しています。どんな時でも、生きる意味があるかどうかは、その人の自由意志に委ねられています」

※ 自由意志とはなんら他からの強制・支配・拘束をうけないと同時に、行動を自発的に選択することができる意志。または、そのような意志のあり方

乙武さんは五体不満足である。しかし彼は幸せそうだ。人生に意味があるかどうかは、まさにその人の意思に委ねられていることを証明している用に思えてならない。

さらにフランクルはヘッベルの誌を引用する。

「人生それ自体が何かであるのではなく、人生とは何かをする機会である。」

これも人生の生きる意味はその人の自由意思に委ねられていることを示す良い言葉に思う。

「私たちは、どんな場合でも、自分の身に起こる運命を自分なりに形成することができます。「なにかを行うこと、なにかに耐えることのどちらかで高められないような事態はない」とゲーテはいっています。それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです。どちらの場合でも、私たちは運命によって、不幸によって精神的に成長できます。」

悩みの本質をついた言葉に思った。羽生善治さんは諦めることと諦めないことの両方が大切だという。人間にはどうしようもないことはある。それを思い詰めても、精神を追い込むだけなのだ。

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