この本はノンフィクションである。19才の美大生がバイクにのったまま、トラックににつっこみ、記憶を失った。
記憶喪失にもレベルがあると思うが、坪倉さんは相当忘れているようにみえる。
「なにかが僕を引っ張った」
これは冒頭の一文であるが、なにかとは母親である。坪倉さんは「もの」と「人物」の違いが理解できていないのだ。
他にも「お腹がいっぱいになったら食べるのをやめなければならない」や「チョコレートは袋を破ってから食べる」といったこともわからない。
家も知らなしい、部屋も知らない、今座っているものも知らないし、お母さんのことは「いつも家にいる人」と呼んでいる、お腹がすいたらご飯を食べることも知らないし、時間の概念をしらないから夜も朝も関係なく起きている。温かいお風呂に入ることも知らないから、水風呂でもブルブル震えながら入ってしまう。
「冷たい!」といえばいいじゃないかと思うだろう。しかし「冷たい」を知らないから、伝えられないのだ。
そう、何もしらないし、伝える言葉を持っていないのである。
話は坪倉さんの日記〈エッセイ〉と母が書いた文章が交互に構成されている。同じ出来事を坪倉さん(主観)と坪倉さんの母(客観)で見れるのが、この本をより面白くさせている。
彼の純粋無垢な視点にふれると、いかに自分が先入観で世界を見ているかがわかる。
たとえばエロ本。ヌードを友だちに見せられるのだが、ムラムラしない。彼にとっては美術の裸の絵も、ヌード写真集もかわらないのだ。
エロいものと思って見るからエロく感じる部分は多分にある。
私はダニエル・キイスの「アルジャーノンに花束を」が好きだが、リアルアルジャーノンであった。アルジャーノンは知能が低いところから、どんどん天才になり、また低知能に戻る話し。
純粋無垢な世界の見方、とまどいはほとんど同じに思えた。